こんにちは。 白美神(HAKU-BIJIN)ホワイトクリームを販売しています、 株式会社アマテラス社長の若松 三差子です。 本日は、 そう願っているあなたには、とってもいいお話になると思います^^ |
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私は営業の仕事を約11年してきました。
営業は机上の仕事ではなく、
「外に出てなんぼ」という職種です。
夏の炎天下の中でも、雪のちらつく日にも、
お客様宅や企業を訪問します。
都市部ではなく緑豊かな地域が担当だったので、移動は車でした。
車内で日傘はさせません(笑)。腕はなんとかなりますが、
顔は、日にさらされる事が多く、これは防ぎようがありませんでした。
勤め始めた30代の頃はあまり感じませんでしたが、
40代にもなると肌のターンオーバーも衰え、夏の日焼けがなかなか戻らず、
そのままシミになってしまいました。
当時の職場は、みんな同じ状態でしたので、「しょうがないよね〜」という
諦めと同時に、みんなでかばい合い、なぐさめ合うというものでした。
ですので、危機感を持ちつつも見て見ぬふりをしていたと思います。
そうなるとだんだん鏡を見るのも嫌になってきます。
「今更・・・」とか 「どうせまた焼けるし・・・」 とか・・・。
そんな言い訳を10年続けていたのですから、肌はたまったものではありません。
そんななか、美容のお仕事に携わるという転機が訪れました。サロンの中にいると、とにかく恥ずかしくて、いたたまれない気持ちでした。
けれど、改善するしかない!と思っても、
今まで使っている化粧品では、その説明書にあるような量では、
もはや改善できない状態でした。
通常1か月ほど使える量の化粧品を、
私は2週間で使い切っても、まだまだです。
化粧品代として、お金もかかりました。
でも、
この「白美神」は、違いました!
白美神ホワイトクリームが届いて、
初めてほんものを手に取った時に思ったのは
「蓋が鏡みたいで綺麗♪自分の顔が映ってるわぁ」
銀色でピカピカしていて、そこに映った自分の顔を見ると、やっぱり日焼けしています。
「本当にこれ一つで大丈夫かな。いやいや、これから頑張るんだから」
と思い、少しドキドキしながら開けると、
「あ、思ったよりたくさん入っている」
今までも決して安い基礎化粧品を使っていたわけではないのに、
いいものを使うと思うと、少し緊張するのは庶民の性ですね。
今までのものは、友人が販売をしていたのでお付き合いもあって使っていました。そこの化粧品は世代別にラインが分かれていて、いちばん高価なラインを勧められていました。「自分の年齢だと、これぐらいのものを使わないといけないのか…」と、年齢と財布を天秤にかけられているような気がしていたものです。
でも、白美神ホワイトクリームはこれ一つでいいのです。
ただ、実際に使う段になると…
「この真っ白なクリームを私の黒い顔に塗ったらどうなるんやろ…
志村けんのバカ殿みたいな真っ白な顔になるんじゃないの…」
と、変な不安に襲われました。
「白くはなりたいけど、バカ殿は嫌だな…
ちょっとだけ塗ってみよう」と、おそるおそる、
中に付いているスパチュラで少しだけ取って
顔に付けてみると…
少ない量なのに、
白くてなめらかなクリームはすごく伸びて、
アッという間に肌になじんで透明感が出ました。
不自然に白くなるのを心配したのがそれこそバカみたいに、
肌がツヤツヤで綺麗になりました。
香料を配合していないのに、ほんのりといい香りがします。
敢えて言うなら、美味しそうな香り(笑)おうちでお母さんが手作りしてくれるケーキのホイップクリームのような優しい甘い香りです。香りが気にならないというよりも、気持ちがふんわりとする感じ。ホッとします。
白美神ホワイトクリームを使い始めてからは、パリパリの乾燥はなくなりました。塗った後の肌を触ると、ムニッと柔らかい!私の大好きなトロンと蕩けそうな柔らかいお餅の感触です。ツヤ感のあるメイクをしても、しっとりと落ち着いて「自分らしいな」と思えるようになりました。
一緒に仕事をしているエステティシャンからも「三差子先生、綺麗になりましたよね」と言われました。彼女曰く「肌がツヤツヤしていて、サロンオーナーらしい雰囲気」なのだそうです。
疲れていればメイクしたままでも平気で寝てしまうような、こんなずぼらな私でも出来たのだから、どんな人でもちゃんとスキンケアが出来るようになると思います。
うまく塗らないとダマになったり、ムラになったりなんていう面倒なことはありません。 少しぐらい服や髪の毛に付いたとしても、変に白くなったりしない。 いかにも「塗ってます」ということもなく、自然に綺麗になれる。
しかも、成分的にも安心なので、こどもさんでも塗れる。
私自身の人生が、いい方向に変わったのが、
この白美神ホワイトクリームなのです。
だから、
・これまであまりスキンケアをしてこなかった人
・自分の年齢を理由に諦めそうになっている人
・綺麗になりたいのにどうしていいかわからない人
そういう人達が、これから綺麗になりたいと思った時に、
何か一つ自分の為にするのであれば、
この白美神ホワイトクリームがいいと思うのです。
すると、今までは注文が入ってくることのなかった地域からも注文が入るようになりました。北は、北海道、秋田、岩手。南は、熊本、鹿児島、沖縄まで。日本全国からの注文、問い合わせが入ってくるようになったのです。
そして、発売初月7月から比べると、2ヶ月目の8月で販売数が4倍に、3ヶ月目の9月には販売数が10倍まで伸びました。
お客様の反応も変わってきました。
来店されたそのお客様に
「今はキャンペーン中なので、
お化粧品をセットで持って頂くチャンスですよ」
とお声をかけると、笑顔で
「この間頂いたあの白いクリーム、すごく良かった!」
と答えてくださったのです。
その日に、白美神ホワイトクリームを含むお化粧品を
たくさん購入してくださいました。
「あんなに使いやすいと思わなかった。すごく伸びるんですね。
もっとボテッと重い感じかと思ってたんです。
お化粧前に塗ると、とてもいい感じです」
今までに見たことのないような笑顔で沢山お話をしてくださり、
本当の意味で心を開いてくださったのがわかりました。
たかが化粧品、されど化粧品。使うもの一つで女性の心が明るく、
社交的にもなり、暗く、懐疑的にもなります。
白美神ホワイトクリームに込めた願いは、ただ肌を白く美しくするだけでなく、その名のとおり、天から光が射し地上を明るくするように、女性の心を明るく幸せにすることでした。
このお客様が白美神ホワイトクリームを通して寄せてくださった信頼が、
私の理想が実現する大切な一歩であったことが何よりも嬉しいです。
Q.若い人には効果があるかもしれないけど私(40代)にも効果があるの?
A.肌のターンオーバーは加齢によりどんどん遅くなります。季節によっても変わってきます。若い人、と比べるより、自分の若い頃と比べてみてください。今ケアすることが何より大切だと気付くはずです。このクリームの成分は植物由来で美白効果・保湿効果も抜群です。40代のお肌に最適と言えます。 私は40代、秋以降は乾燥で悩んでいましたが、このホワイトクリームを塗るとツヤが出て、しっとりした保湿効果が得られ得られて大満足です。
Q.手入れが面倒で、買っても三日坊主で終わりそう。
A.オールインワンクリームなので、ご使用方法は“塗るだけ”と至って簡単です。お時間もかかりません。三日坊主の方ほどおススメです。
Q.一つでどれくらいの期間もちますか?
A.使い切る目安は約1か月です。
Q.白浮きしませんか?
A.クリーム自体は真っ白です。塗った瞬間は白く残っていますが、すぐになじんでスッと消えます。お首筋に塗っても、服には付きません。
Q.ホワイトクリームの感触は?
A.ホイップクリームのような感触です。肌なじみがよく、よく伸びます。
Q.ほかのクリームと何が違うのですか?
A.成分はすべて植物由来のものです。お肌のデリケートな方やお子様にもお使い頂けます。塗った瞬間からお肌がワントーン明るくなるという即効性があります。すでに日焼けをしてしまっている方も、クリームを塗るときめが整うことでツヤが出ます。
Q.お値段的に継続して買うのがむずかしいかも。
A.世の中には、リーズナブルなお値段の化粧品もたくさんあります。それでお肌が万全の状態をキープできているのであれば問題ないと思います。しかし、加齢や季節で、お肌の状態は目まぐるしく変化をしています。お肌のSOSを見逃さないでください。
いつもより肌のターンオーバーが遅いと感じたならば、保湿効果の高いもの、成分にも気を配って、化粧品を選ぶ必要があると思います。何か月か使ってゆっくり効き目が出てくる化粧品に比べて、このホワイトクリームの保湿力は即効性がありますから、お肌の急なSOSにも答えることができます。
私のことを少しお話しさせていただきます。
私は、昭和43年4月、兵庫県明石市、家から海岸までは100mという、潮の香に包まれた 町で生まれました。
家族は祖父母、父母、3つ下の弟の6人でした。
◆祖父は漁師でした。
祖父は漁師で、漁船を持っていたことから、父もサラリーマンではありましたが土日 は船で魚を獲りにでかけ、
私はかなりの頻度でその船に乗せてもらっていました。
岸壁からの釣りも大好きで、早朝家族で釣りをしていたことが
懐かしく思い出されます。弟はいまいち、船での漁が好きではなかったので、父からは「お前が男だったら」と言われていました。さすがの父も中学に入ってからは船に乗せてくれなくなりましたが(笑)
◆生まれつきのアザと大きなホクロ
私の腕には、生まれつきのアザと大きなホクロがあります。
生まれた私にそれを見つ けたとき、母は大変なショックで、泣いて泣いて母乳も出なくなったそうです。 右腕の肘内側に数センチ大のホクロと、左の二の腕全体に青いアザ。幼い時の写真 は、アザがそれはそれは真っ青でした。
その後成長と共に皮膚が伸び、範囲は広がりまし たが、色は若干薄くなってきました。 ホクロは依然形を変えず、そのままでした。
◆当然のように、からかわれました T_T
小学校の時は、男子にからかわれることもとても多かったです。
半袖になる夏は嫌いでした。左腕の アザは袖で半分くらい隠れるのですが、右手の大きなホクロは丸見えで、ハンカチを まいたこともありました。
授業で手を上げるときは左手。母も悩み続けて、お医者さんに相談したら、お尻の皮膚を取って上にかぶせますか、と言われていましたが、踏み切れずそのままになっていました。
◆高校は、駅から徒歩25分の上り坂
私の高校は、駅から徒歩25分という距離(しかも上り 坂)で、
冬は、ひどい厳寒、夏は、とんでもなく酷暑と、通学は苦痛でした。
なのに、ハンドボール部で、最終的にはキャプテンに、・・・TT
運動が苦手な私は、同じ小・中学の友達の誘いで入部しました。
友達は、ハンド部の隣の、陸上部に素敵な男子がいたので、
私への入部勧誘は、半ば強制的でした。その1か月後、
友達も他の部員も、みんな、ほかのクラブに行ってしまいました。
結局、私は、一人だけ残留することになりました。
駅から徒歩25分、しかも、電車の本数も少なったことから、
私は、自宅から自転車で通うことにしました。
自宅から50分、8kmの距離を3年間、夏も冬も雨の日も通いました。
そのせいで、私のふくらはぎ、太ももの筋肉は半端なものではなくなってきました(笑)そのうえ、冬、寒いときはスカートの下にジャージを着用、色気もそっけもない自転車通学でした。
そうこうしている間、運動神経のよい2人が入部してくれたのですが、
次期 キャプテンを決める時、「やっぱり、あの時一人で残ってくれた三差子でしょ」と先輩に決められました。わたしは、ハンドボールの実力でキャプテンになったわけではないのです^^;
◆昭和62年、短期大学へ進学したのですが、
昭和62年、短期大学へ進学、国文科での専攻は上代文学、主に万葉集を勉強しました。短大時代はバイトに明け暮れました。すし屋さんに、ロイヤルホス ト(ファミレス)の掛け持ちで、すし屋さんでは、奥さんのおかげで、演歌やアルコールにも強くなりました。(あ、まだ未成年でした(笑))
夜帰るのも遅く、台所の小窓から忍び込んでいました。
当時は携帯という連絡手段もありませんでしたので、19歳の娘が深夜帰ってこなかったら、父は、とても.心配だったろうと思います。今、女の子をもつ身分になって当時の父を思い知る事ができます。お父さんごめんなさい。
◆祖父が他界
短大1年の冬に祖父が他界しました。自宅でみんなが見守る中の大往生でした。 祖父は腕時計が好きで、祖父の使っていた小さな机の引き出しには腕時計がいくつか入っていました。
その中の一つの腕時計が、祖父が息を引き取った時間 を指していました。
その時計を棺に入れました。わたしは、それまで霊的現象とか今まで見たことも感じたこともなかったし、怖がりなので目を背けてきました。
この時計の件をきっかけに、兆しというか、目に見えない物があることを漠然と感じるようになりました。でも、怖がりは、今でも治りません^^;
◆入社はしたのですが
平成元年入社して、三菱重工業(株)神戸造船所、鉄構部管理課に配属されました。職場は“管理課”という名に相応しく、部長室の隣にあり、課のみなさんは50歳以上の方がほとんど。私以外は全て男性(おじさん)、私(20歳)と一番年の近い主任が42歳でした。
幼いときから耳が悪く、高校時代に一度悪化させてしまい病院通いをしていました。一旦はよくなったのでついついと放置してしまっていたら、右耳が大変なことになっていて、いよいよ手術をすることに。頭部のCTを撮ったら、空洞であるはずの耳のあたりが、膿で真っ白になっていました。
平成元年12月、慢性中耳炎の真珠腫の手術をしました。 耳の裏側にメスいれ、膿を取り出したのですが、一部神経にあたり、舌の右側の味覚がなくなってしまいました。右耳は、聴力がほぼ無くなりました。
2週間の入院で、そのころお見舞いに来てくれていた主人と平成4年に結婚、
平成5年に出産したため、4年半務めた会社を辞めることになりました。
◆阪神淡路大震災
新婚当時は社宅にいて、長男が1歳になるころ、主人の実家のある三木市に移りました。平成6年12月でした。 明けて1月、阪神淡路大震災がおきました。三木にいたおかげで、ライフラインも止まることなく、通常の生活ができました。 主人は兵庫まで通うのに車で片道4時間かかっていました。明石の実家は古い家なので傾いてしまい、その後建て直すことに。
よかったのは、家族が全員無事だったということです。
◆祖母が他界、そして弟も、
平成10年4月祖母が他界しました。
明治・昭和・平成と3つの時代を生きた祖母でした。
翌年、1月16日の真夜中に、弟が夜中に急死したと、父から電話がありました。この電話を受け、主人に伝えようと2階へ上がろうとして、私は、腰が抜けてしまい、階段があがれませんでした。
実家に向かうと、もう弟は眠ったまんまで、父は何とか来客対応していましたが、母はダメでした。弟は、「息が苦しい」と父と母に伝え、救急車を呼んだそうです。救急車が来るまでの間、玄関で父は弟を抱え、必死で胸をさすっていたそうです。救急車が来る前に、父の腕の中で弟の呼吸が止まりました。父はどんな思いだったろうと、想像するだけで今でも涙があふれてきます。
弟は27歳。私は30歳にしてたった一人の大切な兄弟を亡くしました。人生の中で、ともすれば一番長く付き合っていくであろう姉弟。まさかいなくなるなんて想像もしなかった。ショックは図りしれず、父母のことも心配だったので、子供と共にしばらく実家に寝泊まりしました。
◆今度は父が、
父母もだんだん日常を取り戻しつつありました。以前よりお酒の強かった父ですが、確実にお酒の量が増えていきました。家の中では弟のことは言わないけれど、友達と飲みに行った時には泣いて悔やんでたようです。
そんな父に異変がおきました。毎年中学時代の旧友と旅行に行っていた父。その年は別府温泉でした。まだ別府にいるはずの時に父が夜突然帰ってきました。朝になっても、帰ってきた理由は言わず、お酒を飲んで寝ているだけでした。あまりに様子がおかしいので、具合が悪いのかもと病院でCTを撮った結果、コルサコフ症候群と診断されました。アルコール依存による一種の健忘症です。
アルコールを絶てば記憶も問題ないのですが、飲んでいる限り現在の事が覚えられません。昔のことは良く思い出せます。話しかければ、目の前のことについては認識でき、正しい判断ができるので、いつもの通り会話ができます。
見た目にはまったくわかりません。
しかし、今日が何日なのかがわからない、一度教えても記憶できない。
「アルコールは飲まないで。病気治すためだから」と言ったその瞬間は「わかった」 となるのですが、アルコールを止めなければならない事が記憶できないので、悪気なくまた飲もうとします。賢く、そして強い、私には誇りの父でした。弟の死が、どれほど辛かったか、もっと一緒に泣けばよかった、話をすればよかったと、またまた後悔ばかり。
とにかく覚えられない事と、思い出せない自分に、父は異常に腹を立て、「死んで来る」と出かけたこともありました。必死で追いかけました。家でもそのような言動があったので、母は包丁などの刃物、電気コードや紐類を、床下収納に隠したといいます。病気になった父本人も一緒に暮らす母も、それは地獄だったと思います。
病気を治すには、アルコールを止めることしかなく、そのために強制的に入院させることにしました。精神的に疲れてきた母を守るためでもありました。無理やりの入院に父はかなり抵抗し、怒りました。泣きながら父を病院に送りました。
アルコールが抜けるまではつらい入院でしたが、お酒を飲まなくなると再び記憶出来るようになり、以前の父に戻りました。もう大丈夫だろうと退院することに。平和な日々が続くはずでしたが、気が大きくなったのか少量のアルコールを口にしてしまい、またお酒を飲むようになってしまいました。
しかし、父は以前のような激しい行動は取りませんでしたので、母はもう入院させることはしないと決め、病気と向き合いながら気長に暮らすことを選んでくれました。 これより後、頑丈だった体が嘘のように、父は病気にかかりやすくなり、何度か入退院をしました。
◆主人が帰らぬ人に
息子は、その頃、学校に行くのが嫌で嫌で、とにかく毎朝ぐずりました。
「なぜ行かなくてはならないのか?」「したくもないことをなぜしなきゃならないの?」何度も聞かれました。私自身不登校の経験もなく、小さい息子の言っていることだからと、「そのうち楽しくなるから」と適当な返事をしていました。
小学2年になった息子が「お母さん、(学校)いつ楽しくなるの?」と聞いてきた とき、胸が苦しくなりました。 この子は毎日毎日しんどかったのだと。それでもだましだまし学校へは通っていましたが、いよいよ3年の3学期から本気の抵抗が始まりました。
そんな時に、主人がガンと宣告されました。
家の中はさながら地獄のようでした。主人は息子が学校へ行けないことにイラつき、果ては「俺が会社に行かないからあいつも休んでしまうんじゃないか?」と、毎日の痛みをこらえるのにも大変なのに、自分を責めだす始末。息子は機嫌の悪い主人から逃げ、寝る時以外、二人は顔を合わせませんでした。
8月に入り、主人は、ガンが進行し、激しい痛みが襲うようになり、モルヒネが投与されることもありました。昏睡している主人はうわ言で、どうやら仕事の指示をしているようでした。 「病気になったら、仕事出来ることがどれだけ有り難かったかわかった。もっと働きたかったな」と苦笑いしていた主人。今主人は、夢の中だけど仕事できてるんや、と思いました。
入院して2週間後の8月11日の朝、病室で主人は帰らぬ人となりました。
眠るように、ではなく、死の断末魔を見ました。苦しんで目を見開いて、体内の、自分を苦しめ続けてきたものを吐き出しました。すごい量でした。部屋中異臭が立ち込めました。こんなになるまで、戦ってくれた主人。本当に感謝しかありません。息子はずっと泣いてました。主人は38歳でした。当時私は35歳、息子10歳、娘4歳でした。
◆まず自分が変わらなくては!
この5年の間に大切な人がたくさん天国へ行ってしまいました。生きたくても生きられなかった弟、主人、父に、いつか天国で再会したときに褒めてもらえるよう、しっかり生きていこうと思いました。
平成17年、娘が当時通っていた幼稚園で仲良くしてもらっていたご近所のお母さんにお仕事の誘いをうけました。平成5年からかれこれ12年間ずっと専業主婦生活、息子は不登校だし、家にいてあげた方がいいと思っていました。
しかし、不登校生活も2年目、息子を変えるには、まず自分が変わらなくては!家の中で今誰も働いていないわけで、仕事をする(社会と関わる)姿を見せるのは親の努めではないか?と思い立ち、一度見学に行く事を決めました。
翌月、その会社へ就職し、新しい生活が始まりました。
その頃の娘とは、まさに、「反抗期」VS「更年期」、収拾がつきません(笑)
でも、私は、心配ではなく共に成長しよう、私が変わろう、そして私は私の仕事をがんばれば良い!と思うようにしました。
◆奇跡が起こった!
中学3年、娘は進学を希望しました。3学期、面接の練習の最終回は校長先生が相手だったそうです。その日の遅く、携帯に、学校からの着信がありました。反射的に「何かやらかしたか!?」 と電話に出ることが出来ませんでした。
留守電からは校長先生の声が流れてきました。恐る恐るかけ直すと「どうしてもお母さんに伝えたくて。」という前置きの後、「今日面接の練習をしました。娘さんに“尊敬してる人を教えて下さい”と質問したら「お母さん!」と即答しましたよ。“それはなぜですか?”と続けたら「一生懸命働いてるから!」
それから「お母さんみたいになりたい」とも言ってましたよ。僕嬉しくなって、これはお母さんに言わなきゃと思って。娘さんには内緒にして下さいね。」
校長先生にお礼を言いながら、もう声は震えていました。嬉しかったです。
◆株式会社アマテラスを立ち上げました
私は、「白美神ホワイトクリーム」をより多くの人に知ってもらうため、
2016年に、株式会社アマテラスを立ち上げました。
私の人生、僅か48年、されど48年。色々な経験と学びがありました。
たくさんの方のお力を借りて、ここまできました。これからは恩返しをしていく時期ととらえ、一生懸命仕事をしていきたいと思います。
その私を、ずっーと支えてくれているのが、
今回ご紹介させていただいている『白美神ホワイトクリーム』なのです ^^
私のことを少しでも知っていただき、こころから感謝致します。
今なら、3つの特典付きでご購入いただけます。
無料で白美神ホワイトクリームのトライアルがご利用いただけるこの機会に、
ぜひ、ご利用ください。
お支払方法は、「NP後払い」「代金引換」「銀行振込前払い」
の3通りがございます。ご希望の方法をお選び下さい。
お申し込み後、決済方法についてのメールをお送りいたします。
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